『川久保玲・初期コレクションの「衝撃」に関する検証』のまとめ


1980年代初頭、コムデギャルソンのデザイナー川久保玲はその前代未聞のコレクションによって西欧モード界に衝撃を齎したとする言説は、主として新聞やファッション雑誌の媒体で再生産が繰り返されることで事実として強度を増し、既に構築されつつある現代モードの歴史に於いて疑いようのない事実として定着した。しかし、この事実はあまりに断片的な情報と記憶から構成されている場合が多く、また、ベルギーの王立アントワープ美術アカデミー出身のデザイナーを中心とする若手デザイナーたちに多大な影響を及ぼした前衛の旗手、というあくまで現在の私たちが抱いている川久保イメージ先行のもとに、過去の時間に於ける彼女の創作とその受容を劇的に抽出してみせようとするものも少なくない。尤も、コムデギャルソン「黒の衝撃」が黒をファッションに一般化したように思われがちだが決してそういう訳でもなく、それ以前から度々コレクションに黒い衣服が登場する事はあった。ただ、大衆的な週刊誌であるパリ・マッチ誌が当時「税務署へ行く時や賃上げ交渉の際にはぜひ」と皮肉まじりに語った様に、高級プレタの世界に於いて一般的でなかったのは事実で、飽くまで黒に於ける喪服のイメージを払拭した点について「黒の衝撃」なのである。しかし、神話の様に語られるその「衝撃」について、私たちは一体なにを知っていると言えるのだろうか。

コレクションの変遷1
 川久保がパリで初めてその衣装を発表したのは、1981年秋冬シーズンのことである。日本に於いて既に成功を収め、一定の知名度と人気を得ていたコムデギャルソンはここに至ってパリというモードの中心地における承認を求めたと言えよう。
 このとき川久保が手がけたコレクションが全体としてどのような傾向のものであったかを知る手がかりは極めて少なく、視覚資料としては川久保自ら監修を行った写真集『COMME des GARÇONS』、コムデギャルソンの全てのコレクションを振り返った2001年9月号の『ヴォーグ・ニッポン』に於ける特集記事「コムデギャルソンのパリ・デビューからの20年史を辿る。」掲載の写真、そして彼女が今日に至るまでの間に手がけてきたコレクションの様子をシーズンごとに分類した文化学園ファッション・リソース・センター所蔵の画像などが上げられるが、そこに収められた写真の総数はその全体像を捉えるに十分なものとは言えない。
 (中略)このときのコレクションについて特筆すべきは、その規模の小ささである。当時のパリ・コレクションは比較的大きな会場において、ランウェイの上を新作衣服に実を包んだモデルが練り歩くという形式で行われるのが通常であったが、コムデギャルソンのそれは「フランスにしては珍しい天井の低いこぢんまりしたサロン」で「お客さまがいらっしゃるとモデルが出てくる形式」で行われたという。
 ここで、いつのコレクションをコムデギャルソンのパリ・デビューと捉えるのか、という問題がある。パリにおける最初の衣服の発表をデビューとするなら、当然それは81年秋冬シーズンということになるだろうが、前述の通り、この時のコレクションは小規模な展示会という形で行われており、「コレクション」と言った時に通常イメージするようなファッション・ショーとは異なっていた。また、この時点でコムデギャルソンは、パリ・プレタポルテ・コレクションに発表を行う既製服業界の同業組合(サンディカ)に加盟していなかったようだ。そのため、あくまでサンディカに加盟の上、他のデザイナーと同じようなショー形式で行われるということに拘るなら、川久保玲は次に見る82春夏コレクションにおいてデビューを果たしたことになるだろう。

川久保玲・初期コレクションの「衝撃」に関する検証

文化学園の図書室を利用して写真集『COMME des GARÇONS』を、文化学園ファッション・リソース・センターを利用してパリ・デビューの前シーズン(81年秋冬)と翌デビューシーズン(82年春夏)との画像を合わせて確認した時の印象としては、グレーのバリエーション他、白やカーキの衣服、藍や紺の青系寒色と生成りなどを基調とするさらりとしたアンサンブルが多くを占め、肩が張った風合いで全体的に軽い印象を与えるコレクションは、とてもコムデギャルソンのイメージとして流布している「モノ・トーンが貴重となって彩りが少なく、破壊的」といった意匠からは隔たりを含み、軽く肩透かしを受けたような記憶がある。また、写真集『COMME des GARÇONS』は全ての衣服の写真が白黒で収められていたために、色彩的特徴を手がかりにすることは出来なかったが、実際このコレクションを目にしている原由美子の回想によれば「サロンで見た時は、ひたすら黒っぽい印象だった」という。この点に於いても言えることだが、結論を急げばまだ「ボロルック」「乞食ルック」と一般に呼ばれる、あの虫食い穴が特徴的なニットやカットソーが登場していないこのシーズンからさえ、「80年代初期の衝撃」とコレクション時期に付いての明言を避けて祭り上げてしまうのは、恐らくコムデギャルソン神話の一人歩きが生み出した誤った物語に過ぎない。ただ、『川久保玲・初期コレクションの「衝撃」に関する検証』内にも記述がある通り、「布に見られるくたびれたような質感やアシンメトリカルに垂れ下がったそれには、後に登場する破壊的意匠に通じるものがあるのかも知れない」というのもまた事実ではある。


コレクションの変遷2
 82年秋冬コレクションに至り、あの虫食い穴のような意匠の見られる黒い衣服が登場する。不規則な綻びのようにも見える穴の開けられたゆったりとしたニットは、これまでにも写真で紹介されてきたものだが、そこではニットのみならず、さらに大きな穴の穿たれた大ぶりのカットソーも複数手がけられているようだ。また、使い古し、洗いざらしにされたよな質感が布に見られる。
 もっとも、このような破壊的な意匠と黒という特徴のを備えた衣服がコレクション全体に於いてどれほどの割合を占めていたのかは不明である。この時発表された衣服を纏まった形で確認出来る資料としては、2001年1月12日放映の『NHKスペシャル 世界は彼女の何を評価したのか』(文化学園ファッション・リソース・センター所蔵)と文化学園ファッション・リソース・センター所蔵画像とを挙げることが出来るが、(中略)NHKスペシャルで確認されたそれは部分的に内容を異にしていると言え、明らかに破壊的と見て取れる意匠を伴う衣服は確認出来ず、どちらかと言えば素朴で田舎じみた印象を醸している。
 (中略)このコレクションで注目すべきは、衣服に見られる破壊的意匠のみならず、ショー全体の演出に見られる挑戦的なイメージであろう。そこでは前衛音楽を背景に、通常のモデル・ウォーキングとは似ても似つかぬずかずかとした歩みとともにモデルが登場し、それが踏み出されるだび、結ばれないままの靴紐が跳ね上がっていた。
 さて、83年春夏コレクションでは、前シーズンの穴に変わって裂け目のような意匠が登場する。また、古着のようにくたびれた布の風合いや、布端を処理せずに切り放したままに置くという手法も前シーズンに引き続き登場したようである。さらに、このシーズンの衣服の多くには、身体との間のあきの大きさを指摘することが出来るのだが、それは衣服のゆとりというよりは、未だ衣服として完成した形態を与えられていない布が持つ存在感、表情とでも言うべきものである。
 このシーズンのコレクションについては、しばしば黒い衣服ばかりが発表されていたように語られるが、そこでは一軍の白い衣服が発表されており、また紺と白のボーダーのものも一点確認することが出来る。春夏コレクションだけあって、この白い衣服群が挿入されることにより、そこには涼しげな印象が付け加わっていたと言えよう。

川久保玲・初期コレクションの「衝撃」に関する検証

こうして見ると、パリに於ける初のコレクションと第二回目のコレクションは、82年秋冬コレクションと83年春夏コレクションの華々しい「衝撃」というワードで語られる神話の影で、ひっそり静かに忘れ去られたかのように素通りされてしまっている。そして衝撃のコレクションに話を移しても、決して衣服の多くが「ボロルック」「乞食ルック」の穴や裂け目といった意匠だったのではなく、火傷の痕か痣のようなメイクやショー全体の破壊的イメージ、均整のとれたもの・完全なものの対極にある「破壊」という積極的な行為の所産と見える表現方法などに裏打ちされて完成した「衝撃」であるのだと言えよう。

これまで、「黒の衝撃」に関する言説は様々な性質の媒体において登場させられているわけだが、これらのテクストを概観すると、そこでは80年代前半のいずれかの時期に於いて、穴などの破壊的意匠を伴った黒を基調とする衣服のコレクションが大きな反響を呼んだという大まかなストーリーは共有されているものの、言及されているコレクションの時期にばらつきが見られたが、今回『川久保玲・初期コレクションの「衝撃」に関する検証』によって整理しておきたいのは、「川久保玲によって破壊的な衣服が発表されたのは82年秋冬と83年春夏コレクションに於いてのことであり、彼女の創作に対する反響がジャーナリズムにおいて起こるのは83年春夏コレクション終了後の82年10月以降であること」である。フランス・ジャーナリズムについての検証は割愛したが、決してコレクション直後からパリ・モード界が騒然とショックを受けたのではなく、どちらかと言えば静かにファッションジャーナリストたちの間で口伝えで広がり、徐々に認知されていったに過ぎなかったのである。現代モードに於ける歴史の一つは、多くの人々に口承されて実際が見えにくくなってしまい、筆者は「同時代の周辺状況に於けるそれが何であったのかを実証的に明らかにしていくことが、もう少し見直されるべきではないだろうか。歴史主義的客観主義の欺瞞と傲慢とにすでに多くの批判が加えられており、それらが全く正しいとしても、である」という言葉で締めくくっている。